ネコと鮮魚

ネコと鮮魚が仲たがい

大人になっても記憶として残るもの

昨日、「우리들」という映画を見たんですが、本当に名作でした。

 

友達のいない、いじめられっ子の小学生ソンが夏休みの直前に転校してきたジアという女の子と出会い二人は友達になる。夏休みの間に、塾に通うようになったジアは、そこで、スクールカースト上位のボラと仲良くなる。そして学校が始まると、ジアはボラたちの一味にすっかり溶け込んで、ソンはまた一人ぼっちになってしまう。そこから、ジアとソンは報復合戦のように、周りのスクールカースト上位層(ボラたち)を巻き込みながら、互いに傷つけ合う。

 

というのが、物語のあらすじだ。

夜勤明けのぼんやりした感覚で見たので、あらすじに入れるべき大事な描写が抜けているかもしれない。(誰かの映画レビューの記事を参照してください。)

 

私がこの映画の感想として一番に述べたいのは、「どうして大人が、このような子供時代の瑞々しい感覚をここまで鮮明に、絶妙に表現できるのか」ということだ。

 

一通りこの映画を噛み締めてから、浮かんできた疑問がこれだった。

 

そして1分に満たないくらいの時間考えて出た結論が「寂しい、悲しい、怖い…という記憶ほど、いつまでも、しつこく残る」ということだった。

 

だから、大人が「우리들」という映画を作れるのだ。きっと、監督の心の中にそういう記憶が鮮明に残っていたからだ。…論理が飛躍していますが、映画を見たら、きっと分かります。

 

たしかに、自分自身も、子供の頃の楽しかった記憶よりも、「体調を崩したけれど、お母さんは仕事で一緒にいられなかったこと」や「幼稚園の年少ペアの子が泣いてばかりで、全くお姉さんになれなかったこと」とかそういう記憶ばかりを嫌に鮮明に覚えている。

 

では、なぜ陰性の感情(悲しいとか怖いとか)は、しつこく記憶に残るのかということを自分なりに考えてみたけれど、分からなかった。

 

きっと陰性の感情を脳のどこかで処理する時に陽性の感情処理と違う方法で処理されるんだろうとか、よく分からないけど、何か脳科学的な知見がありそうだよね。難しいことはわからないや。机上の空論クラブだからさ。

 

 

 

それからね、最近、感情というものについて考えることがあった。(まぁしばしば考えているんですが…)

 

感情には数えきれないほどのいろんな種類がある。ほんとうは、言葉なんかをあてられるものじゃないかもしれない。仮に言葉をあてたとしても、その定義も人それぞれで、曖昧だから、すごく不確かなものだと思う。

 

まだ言葉になっていないけど、どこかにある、名前のない感情も世界に無数にあると思う。そう考えたら、感情というのは、まことに一つの宇宙のようなものだ。おもしろいね。心情をchaosと表すことがあるけど、まさにそういうことなのかも。

 

0と1を考えた時の、「0がnothingで、1は確かに在る」みたいな数字のような正確さは、感情を表す言葉にはない。

 

数字は私にとっても、あなたにとっても0と1という絶対的なものだけど、私の嬉しいと、あなたの嬉しいは違うし、私の悲しいとあなたの悲しいも違う。不確かだね。

 

そのような、不確かで主観的な「感情」や「痛み」を表すスケールとしてそれらに数字を当てることが医療やアサーショントレーニングなどでもある。不確かなものを数字を使って表すことで、不確実性を限界まで可視化できるようにしたものであるが、たとえば、私の怒り5/10は、あなたの怒り8/10かもしれない。だから、数字で表しても、未だに感情や痛みの不確実性は残る。

 

だから、感情はすごく難しい。

数字よりも難しいんだ。

 

誰も絶対に、完全には理解できないんだ。

誰かの感情を理解しようとする時、言葉や数字で解釈を埋めることはできるけれど、完全に埋まることがない。

 

そう考えたら、人間、未知すぎてこわい。

でも感情が、宇宙みたいだと考えたら、ちょっと面白い。

 

誰にも完全には理解されない、誰のことも完全には理解できない人間が集まっている家と会社と学校と国と世界。なんてこった!