保健室のベッド
保健室のベッドで寝たことがあるでしょうか。
ご存知の通り、保健室のベッドは体調が優れない生徒をはじめ、なんかサボりたい生徒や、そのほかいろんな事情をもった生徒が寝転ぶところである。
小学生の頃、家を出る前、朝からなんとなくいつもと違う感じがしていて、母さんにもなんとなくは伝えたのだけれど、はっきりとは言えなくて、結局半ば強引に家を出され、学校に行き、案の定、学校で体調を崩してしまったことがある。
体調を崩したときってなんであんなに心細いんだろうね。あの日、元気なみんなのことを羨ましいなと思ったのを今でもおぼえている。
保健室のベッドに初めて横になった。
保健室のベッドは硬くて、掛け布団だって重たくて、決して居心地が良いとはいえなかったけれど、学校で休める唯一の場所、安息の地であると感じた。
親は仕事に出ていたので、すぐには迎えに来れなくて、たしか夕方くらいまでずっと保健室のベッドにいた。
硬いベッドの上で目が覚めたら保健室の先生と母さんが座って話してた。
私は、ほら、イワンコッチャナイ…という目で母さんを見たかもしれない。
それでも母さんを見たら安心した。
次の日は大事をとって学校を休んだ。
学校を休むのは、なんだか気恥ずかしかった。
恥ずかしいこと、なにもないのにね。
学校を休んで家で過ごす真昼間は、やけによそよそしくて、落ち着かなかった。
長い夏休みの昼間に見るテレビと、そう内容も変わらないはずなのに、なんとなくそわそわして、夏休みとはてんで違う、へんなきもち。
それから、病み上がりに学校に行くのが嫌だった。みんながしきりに大丈夫?と声をかけてくれるから。なんとなく恥ずかしかった。
今考えたら、みんなやさしいね、ありがとうって思うけどね。
中学生になっても、まだ少しだけ、病み上がりの登校が恥ずかしかったけれど、高校生になったころには、もうなんとも思わなくなった。
高校生のころ、休んだことあったっけ?ってくらい元気だった印象しかないが……。
1日だけ休んだような、休んでないような。
まあ、記憶が曖昧になるくらいには、休むということに対して前述のようなこだわりみたいなものがなくなってきたということだろう。
仕事をし始めると、勤務に穴をあけてはならん…と、少しくらいしんどくとも鞭を打って働くようになる。
さすがにあまりにしんどいときはお休みをもらうけれど、それでももう、保健室には行けないし、あのころみたいな恥ずかしさとか全部、「休んでまじで申し訳ないな〜」の気持ちに持ってかれちゃうの、なんかヤダな〜と思いました。
また保健室のベッドで寝たいよ。
安息の地よ、永遠に。
笑顔でコツコツ生きてやる
悲しみは川には捨てられないし、形を変えながらずっと一緒に生きていく。喜びも、全て。
凹んだことを忘れていたのに、ふとしたときに思い出してしまうことがある。
凹みの具合によるけれど、また殴られたみたいに凹んでしまうこともある。
でも、歳を重ねるにつれて、少しずつだけど、凹みからの修復は早くなるものね。
もちろん例外もあるのだけど。
政治家たちの献金問題とか、お給料事情とか、聞くたびに、なんでなん?ってくらい嫌になるけど、その嫌だなという気持ちと同時に、笑顔でコツコツ生きてやるという気持ちが私の中でむくむくと育つのである。
真面目が馬鹿を見るときもあるけれど、それでも真面目に生きていくことを信じていきたいと思う。
真面目を信じる人がいなくなる世の中であってはならない。
上手くやれば、何事も、手を抜くことはできる。それでも、手を抜いているときの後ろめたさのような気持ちに対して、ずっとずっと素直でいたいと思う。
こういう感覚を誰かに押し付けたいわけじゃなくて、ただ、真面目に生きていくことを私自身が、積極的に肯定していきたいだけ。
小さい頃から容量が悪くて、何をやっても人並みか、または分野によってはそれ以下だった。
人より少しだけうまくできたことは、歌を歌うこと(父親譲り)と、かけっこ(母親譲り)くらいで、お勉強や工作は、てんでダメだった。
小学校は休み時間以外楽しくないし、先生もいやだったし、みんなで足並み揃えるのも嫌だった。全部むかついた。
でも、いつの間にか、色んなことが、人並みにできるようになった。ほんとうにいつの間にか。
頑張ったからだと思う。
できない勉強も、分かろうとしたからだと思う。
どうせお手本みたいにはできないお裁縫も、絵も、ブロンズ粘土で作ったピーマンも、なんとかしてやるって気持ちで頑張ったからだと思う。
頑張っても、結果が出ないことはあるけれど、頑張ってきた過程で、知らず知らずの間に得たたくさんの小さなことがら、感じた気持ち、全部が、私が死ぬまで、溶けない雪みたいにずっと積もっている。そしてこれからも積もってゆく。
だから、うまくできなくても、絶対なんとかしてやる、コツコツ生きてやるって思うんだよね。
わたしは、かなり弱いが、それでもずっとずっと真面目に、生きてやるって思うのよね。
無花果について
小さいころ、無花果は全然好きじゃなかったのに、大人になってから大好きになった。
いつのことだったか忘れてしまったけれど、大きくなってから、実家に帰省したときに初めて無花果を食べた。
甘くて、甘くて、甘い、だけどちょっとだけクセがある。食感はどろり、ぐにゃりとしていて、すこし心配になるけれど、それが無花果。
包丁を入れた時の断面はあまりにもきれいすぎる傷口みたいで、毎度、はっとさせられる。
熟れてから、ダメになってしまうまでが早くて、旬を逃したら、すぐに傷んでしまう。
なんだか「食べ頃、絶対に逃さないでよね」
と言われているみたいで、冷蔵庫に無花果がある間は、ちゃんと気にかけてあげなきゃと思わされるのである。
今日、いただき物の無花果を切っている時、なんでもっと早く無花果を好きにならなかったんだろうなと少しだけ後悔したけれど、子供の頃の私に無花果の美味しさが分かるかと言われたら、やっぱり分からなかったとおもう。
だから、無花果を好きになったいま、無花果のことを、大好きな果物のひとつと、言いたいと思う。
夏、スーパーでは桃が香る
夏、スーパーに行くと、果物コーナーではいい匂いがする。
マスク越しでも分かる匂いの正体は桃。
高いから、あんまり買わないけど、まるくて桃色で生毛が生えててかわいい桃のこといつも気にしてる。
果物コーナーは楽しい。
いろんな匂いがするから。
冬よりも、夏の方が。
はだかのままで並んだキウイ、りんご、オレンジ、グレープフルーツ。
もちろんかなり近づかないと分からない香りもあるけれど、バナナと桃はいつも分かる。
果物はちょっと宝石みたいだなと思うことがある。カラフルで、透き通っているから。
好きな果物の色はキウイのみどりだけど、一番宝石だなと思うのはピンクグレープフルーツ。
ブドウもいいけどね。
皮や実の繊維の美しさとか、パックで買った時の、其々不揃いな感じとか、食べた時の食感とか、楽しいよね。これは野菜にもあてはまる。
おやつがいつも山盛りの果物になればいいのになんて思うことがあるけれど、私はクッキーとかチョコレートとか、甘いお菓子も大好きだから、おやつがいつも果物になっても、結局は果物もお菓子もどっちも食べちゃうだろうななんて思った。
桃が並ぶのは基本的に夏だけなので、スーパーにお買い物に行って、桃の香りを匂うのが最近のちょっとした楽しみなのです。
桃よ、生毛よ…。
◎今年いただいた桃
太陽と月とさようならのある世界
太陽が昇るのが早くなって、月が出るのが遅くなって参りました。
この数ヶ月の間で、私たちのこれまであった、当たり前だと思っていた生活は変わってしまいました。
その変化が大きかった人も、小さかった人もおられると思いますが、「会いたい人に会えない」というのは、ほとんどの人に共通することだったと思います。
さて6月になって、少しずつですが、人と会うことができるようになって参りました。
今日は久しぶりに散髪に行き、そのあと姉と街中でお買い物をしたりお茶をしたりしました。
「舞妓はんひいひい」というカレー煎餅のお話をしていたら、その流れで「お煎餅オペラ」という謎の言葉が浮かび上がりました。
「お煎餅オペラ」という言葉には「お煎餅」と「オペラ」というなんともミスマッチな組み合わせに面白さを感じたのであります。
そこで我々は「お煎餅オペラゲーム」と称して、ミスマッチな組み合わせの言葉を言い合い、想像するという遊びをしました。
「パチンコ舞妓」とか「爆速コアラ」とか「赤ちゃん暴走族」とか「バリキャリナマケモノ」とか、なんか治安が悪そうなのが多めなのですが、まぁそんな感じで、どれも想像すると面白くて笑えてしまうのです。(舞妓さん、本当にすみません)
さてさてそんなこんなでケラケラと笑っていたら、あっという間に夕暮れになりました。
「バイバイ〜」という言葉は、人に会ったからこそ言えることであり、さようならするのは寂しいなと思う事もあるけれど、この別れの言葉にちょっとした安心感や幸福を感じる今日でありました。
太陽が昇り、一日が始まって、夜になると月が出て、また一日が終わるという当たり前の毎日に、彩りを加えるのは、絵であり、映画であり、音楽であり、本であり、花であり、歴史であり、計算であり、科学であり、食事であり…そして何よりも人間である〜!ということをすごく感じます。
もう人間と関わりたくねぇ〜ってときもたまにはあるけれど、それでもやっぱりこの世界に帰ってきてしまうのである。
雑記20200430
4月最後の日。
あたたかくて、日差しが強かった。
窓辺でカーテンを揺らす風が、ひと足はやい半袖姿の私には少し冷たくて、心地よかった。
手先や足先、腕の冷たさを、皮膚と皮膚を合わせて確認した。
ベッドの上で布団をかぶらずに、ただ、シーツや毛布の感触だけを愛でて、飽きたらゲームをした。
久しぶりに映画を一作見た。
おやつが欲しくて、でたらめで暴力的なクッキーを焼いてみたけど、全然美味しくなかった。
愛がないとおいしいおやつはできない。
夏の、少し冷たい夜みたいな昼下がり。
天国、こんな感じだったらいい。